2022年9月17日
顔面解剖実習-3
実習前セミナー
今回の実習は1泊2日の行程で行われた。日本と大連の時差は1時間ほどであり、午前10時に成田空港を離陸した飛行機は大連時間の昼過ぎに到着した。宿泊先となるホテルは空港からタクシーで20分ほどの大連市街にあり、この会場で夕食後、翌日の解剖実習に向けたセミナーを開催した。中国側からは大連大学医学部の高教授、王教授、4名の講師、米国ハワイ州の米国人医師、Pasquale医師が、そして 日本から私が講師としてセミナーを担当した。高教授は中国美容外科学会の重鎮で、その名は中国全土に広く知れ渡っており、中国美容外科業界で最も著名な医師の一人である。高教授の発表は、従来までの美容外科全般と、この医療の将来への展望についてであったが、長年にわたる実績に基づいた貴重な発表であり、大変参考になった。
次の発表はいきなり私の番であったが、名声ある中国教授陣を差し置いて何故私が先に行うのだろうと疑問に思った。後ほど関係者にその理由を尋たところ、中国では海外から招待した医師に敬意を表するため、招待医師たちを優先的に発表させるとのことであった。私は上下眼瞼を中心に、眼周囲解剖についての発表を行った。日本からは、私を含めて5名の医師たちが参加したが、残り80名近い中国の医師たちは真剣な面持ちで私の講義を聴いており、発表する側の私もかなり緊張した。私の発表は日本語で行ったが、逐次通訳で中国語に訳された。しかし、通訳者との呼吸を合わせるのが意外に難しく、タイミングを合わせるまでしばらく時間を要した。私の発表がどの程度適切に通訳されているか知る由がなかったが、上下眼瞼手術に必要な解剖学的ポイントは伝えたつもりだ。
個性的な米国形成外科医
次の演者は、もう一人海外から招待されたPasuquale医師であった。彼はフェイスリフトに必要な解剖について講演を行った。Pasuquale医師は大変個性的で、一般日本人医師とは大きく異なる生き方や考え方を持っているので、その経歴について説明したいと思う。Pasuquale医師は米国東部出身で、名前から察することが出来るように、イタリア系米国人である。決して裕福な家庭で生まれ育ったわけではないPasuquale医師は、米国軍から支給される奨学金でフィラデルフィアにある医学部を卒業した。米国では医学部が日本の大学院に相当するため、その前に勉強する4年間の理系大学を含めると、医師資格を得るまでに8年という長い年月を要する。また、借りた奨学金はアメリカ軍へ従軍する義務があり、彼は1990年に中央アメリカ、ニカラグアの戦地に出向いている。勇敢なPasuquale医師は戦地に医師として赴任したのではなく、なんとグリンベレーと呼ばれる特殊部隊に志願した。グリンベレーは厳しい訓練で知られ、大半の志願兵が脱落するが、彼は見事合格し、コンバット部隊として前線で戦った強者なのだ。現在50代中半の彼は、ニューヨーク大学医学部附属病院形成外科フェローシップで研修を行い、形成外科の専門医となった。その後、彼は15年ほど前にハワイ州オアフ島で美容外科クリニックを開業し、現在に至っている。
Pasuquale医師の話によると、米国の形成外科専門医研修はかなり過酷だったらしい。彼が専門的に研修したのは、神経損傷を修復するマイクロサージェリー(顕微鏡手術)だった。神経損傷の主な原因は外傷によるので、その研修は救急外来勤務から始まり、不眠不休の研修が何年も続いたらしい。救急外傷を中心とした初期研修が終わると、次は顕微鏡を用いた本格的な微細神経、血管縫合が主体となる。損傷した顔面神経の再接着縫合、神経移植縫合や、離断した手指の神経血管縫合などは、時には10時間を超える根気のいる大手術になる。
米国の医療体制
ここで米国の医療費について触れてみたいと思う。米国には日本のような国民皆保険が存在しない。では、医療費はすべて自費診療かと思うが、決してそうではなく、米国民の大半は自分たちが勤務する企業を通して、医療保険に加入している。この医療保険を統括しているのがいわゆる、HMO(Health Maintenance Organization)、日本語に訳すと健康維持機構である。
したがって、大半の医療行為はHMOが下した医療費範囲内行うことになり、医師が取得する収入もHMOの采配次第ということになる。Pasuquale医師が言うには、マイクロサージェリー専門医師の給与は、その過酷な労働に決して見合うものではないらしい。彼がこの分野から美容外科へ転身した理由の一つは、完全自由診療である美容外科では仕事内容に見合った収入が得られる合理性を見いだしたからだそうだ。これは我が国も同様で、国民皆保険下ではどんなに過酷な勤務を強いられても、原則的にその努力や成果は報酬として評価されない。それに比べると、美容外科のような自由診療では、報酬等が行った治療に直接的に反映されるため、それがインセンティブ(動機)となり、こういった診療科を選ぶ医師が最近増えているらしい。