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美容外科ブログ

2022年9月20日
フィラデルフィアー3

合理主義の国、アメリカ 週3日の手術日に、外科医たちは朝から晩まで手術を行った。残りの2日間、医師たちは外来診察を行う。昨日まで、まるで大工職人のように関節手術を5~6件終えた医師たちは、今日は朝からワイシャツにネクタイ、その上に白衣と、いかにも医師らしく身なりを整え、診察を行っていた。外来診察も日米で大きく異なる。日本の医師は、診察室で座りながら患者さんを診察室に呼び入れて診察する。米国ではいくつかの部屋にあらかじめ患者さんを入室させ、待たせておく。そこに医師が入り、椅子に座って待つ患者さんを、医師が起立したまま診察を行う。こちらの医師は一人の患者さんの診察が終了すると、隣の部屋で待つ患者さんの診察を行い、この流れで次から次へと診察をこなしてゆく。また、日本の医師はどちらかというと、患者さんを上から見る印象があるが、米国の場合、医師と患者は同等か、むしろ医師が患者さんをお客様として丁重な姿勢で扱う。米国には国民皆保険が存在せず、基本的に自費診療中心なので、医療も通常のサービス業で必要ないわゆる”顧客(患者)あっての商売”の精神で診療するので、医者は決して患者さんの前で偉ぶらない。ビジネス面から見ると競争の激しい米国医療業界の中で生き残ってゆくには、こういったサービス業の精神が医療でも必要なのだ。 僕は朝8時半から夕方5時近くまで、通しで行われる外来診察を一日見学した。その間、彼らは一度も休むことなく、立ちっぱなしで仕事をした。時折、診察室から出たところにあるカウンターテーブルにたたずみ、そこでカセットテープに診察記録を吹き込む。カルテを記載する時間がないため、この録音されたテープを秘書たちが後からタイピングしてカルテとして保存するのだ。昼食はとらないのだろうか?よく観察していると、医師たちは15分程度の空き時間を利用して、カフェテリアに足を運び、サンドイッチなどを口にしていた。その後、ダイエットコーラやコーヒーを持ち帰り、直ちに診察に戻った。このように、時間を一分も無駄にすることなく、効率よく仕事するのが米国流合理主義だが、一日の見学を終了すると、僕の足は棒になるほど疲労した。米国の外科医は高収入を稼ぐと言われるが、それに見合うだけのハード・ワークをこなしてるからそれも当然なのだ。 米国と日本の医療事情の違い 早朝から始まる手術、そして立ちっぱなしでおこなう外来診察を眼の辺りにして、正直その厳しさに狼狽した。しかし、この研修中に志高く、米国で外科医を目指す日本人医師にも遭遇した。彼はその当時、米国での外科医研修枠が見つからず、その枠が空くのをなんと3年間、浪人生活を送りながら待っていた。米国で外科研修を完了するには少なくとも6年の歳月が必要である。当時、その日本人医師は30代半ばの働き盛りだったから、これから外科医研修を開始するとその間、研修医として薄給での生活が強いらる。そして、彼が外科医として一人前になる頃、年齢は40代に到達している外科医が最も有能に働けるのは35~45歳とされるので、彼は外科医研修のためにその大切な時間を犠牲にすることになる。僕にはそこまでの覚悟が出来ず、このまま日本で外科医として生きる道を選んだ。 ところで、日本の医療制度は国民皆保険で治療費の7割が税金で支払われる。勤務医の場合、原則的に医師は給与制で、何科の医師であろうと支払われる給与は一律である。僕が学生時代、研修を行った病院で、眠る暇もないほど多忙な心臓外科医の次のようなぼやきを耳にしたことがある。「俺たち心臓外科医は命をすり減らして仕事をしているのに、他科の医師たちと同じ給料では、正直やっていられないよ!」と。ここに日米の決定的な価値観の違いがある。この心臓外科医はどちらかというと、米国流の考え方であり、米国では労働に見合った収入を得るのが常識である。それに対して、日本の場合、仕事の価値は必ずしも収入で評価されないが、医師たちがやりがいのある仕事をすればそれでよし、と言った、内容主義的な考え方が一般的だった。人助けという医師の仕事上、日本の考え方のほうが、より高尚なのかもしれない。しかし、外科医のように、自分の能力がこなした手術の数や成績が評価される場合、プロスポーツ選手のように収入に反映される方が、やる気を維持する上では良いのかもしれない。 人種の壁 多忙な米国外科医たちの生活も、週末は完全休養だった。短期研修中、僕に知り合いは誰もおらず、何をすることもなく時間をもてあました。ある程度孤独に陥ることは覚悟していたが、週末誰一人と話す機会がないと強い孤独感を感じた。どんな場所に行ってもその街に慣れるにはしばらく時間が必要なのだ。街に慣れるに従い友達が少しずつ出来るから、完全お客さん扱いのこの程度短期留学で、友人を作ることは不可能だった。 こうなれば英語の勉強にと週末は映画を見に行くことにした。散歩がてら、研修病院の寮から徒歩で1時間近くかかる映画館まで歩いた。米国の映画館はシネコンプレックスになっており、たくさんの映画が一本500円程度で鑑賞できた。僕は昼過ぎから夜まで、立て続けに3~4本の映画を見た。 ある週末、映画が終わる頃になって、辺りで突然激しい雨が降り始めた。これほど激しい雨の中を傘も差さずに1時間も歩けいたら、必ず持っていた携帯電話壊れるので、タクシーで帰ろうと思った。休日の突然の激しい雨によってタクシーはどこにもいなかった。映画館の出口にはたくさんの人がタクシーを今かとばかりに待っていた。だが、タクシーは待てども全然来なかった。しばらくすると、10分に1度くらいの間隔でタクシーは来始めたが、まだ前には10人ほどいて、僕がいつ乗れるかわからなかった。タクシーが来るのをあきらめた人たちは、携帯電話で家族や友達に迎えに来てもらい始めていた。知人が誰もいない僕は、そこに取り残された。一時間近くタクシーを待って、時刻は午後11時近くなり、映画館の出口も閉まった。 雨は依然として激しく降っていた。最後に僕の前にいるアメリカ人の若者3名と僕だけが残った。ようやく1台のタクシーが久しぶりに来た。このタクシーは彼らが携帯で呼んだらしかった。僕はタクシー会社の連絡先すら分からなかった。彼らがこのタクシーに乗ってしまうと、僕は一人だけ完全に取り残されてしまうと思うと、急に不安になった。僕は勇気を振り絞って、彼らに相乗りさせてもらうようお願いしてみた。偶然にも帰る方向が一緒だったので、彼らは僕を乗せてくれた。僕は彼らの行為にとても感謝したが、見ず知らずの米国人たちと相乗りのタクシーの中で、全く口を開くことも出来ず、凍り付いたようになっていた。日本人の僕が、もし他国で暮らすことを選択したら、こういった孤独感に耐え、それを克服していく必要があった。だが、すでに30歳を超えていた僕にはそれは予想以上に困難だった。その後しばらくしてから、もう一人の日本人研修医がやってきた。残りの研修期間、僕は彼と一緒に行動するようになり、僕は孤独から解放された。僕はこのような海外経験から、日本人同士の絆の価値に気がつくようになり、日本で生まれた自分の意義を考えるようになった。

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