2022年9月20日
“渡辺香津美”のライブ演奏
目に止まったライブハウス アキレス腱損傷から早くも2ヶ月が経過し、ようやくまた地下鉄通勤が出来るようになった。いまだにビッコは引きながら歩くので、通常より相当疲れる。松葉杖、ギプスをしていた頃は、怪我をしていることを周りの人に理解してもらう事が出来た。だが、ギプスがはずれて歩いていると、怪我をしていることを周りにわかってもらえない。周りの人は僕がビッコを引いているのは、元々足が悪いと思っているかもしれない。そう考えると、松葉杖、ギプスをしていた方が精神的には楽だった。自宅から地下鉄六本木駅まで、リハビリを兼ねてゆっくり歩いていると、健康な頃には気がつかないものが目に入る。駅近くには有名なライブハウス、スウィート・ベイジル139があるのは知っていたが気に留めることはなかった。ここはジャズのライブ演奏を行なうのだが、急に覗いてみたくなった。昼間は準備中で中には誰もいなかったが、看板に“渡辺香津美のジャズギターの演奏”と書いてあった。渡辺香津美と言えば、今から20年前、坂本龍一率いるYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が一世風靡していた頃、ジャズ・フュージョン界のギタリストの第一人者だった。僕も大学生の頃、こういったジャンルの音楽をよく聴いたものだ。電話で今晩の予約状況を確認すると、まだ空席があったので、その晩のチケットを確保した。 その晩、夕方7時過ぎにスウィート・ベイジル139に行くと、中はすでに満員のお客さんで埋め尽くされていた。コンサートが始まり、生のアコーステッィク・ジャズに耳を傾けるうちに、僕の記憶は10年前のニューヨークの想い出に結びつき始めた。 マンハッタンのサイクリング 10年以上前のある日苦学生の僕は友人から数十ドルで譲ってもらった自転車に乗りながら、研究室のあるアッパーイーストサイドを出発した。時間は午後7時過ぎ、サマータイム制のニューヨークの夏はまだまだ暮れない。金曜の午後は楽しい週末に向けて、家路を急ぐ車の渋滞がひどいパーク・アベニューで、一台の車がホーンを鳴らし始めた。連鎖反応のように次々と車のホーンが鳴り響き、一種独特な喧噪感が街中を覆う。僕は車で溢れたこのニューヨーク一の目抜き通りを縦横無尽に自転車を操り、南へと向かう。マンハッタンは思いのほか狭く、僕の住処だったアッパーイーストサイド、63丁目から‘自由の女神’のそばにあるマンハッタン南端のバッテリー・パークまで、自転車で30分もあればたどり着く。なかなか進まない研究に焦燥感を持ちながら、ストレス発散にと、サイクリングをすることにしたのだ。 当時、薄給の研究生の僕に出来る楽しみは、活気あるこのニューヨークの街並みを自転車で探索することくらいだった。パーク・アベニューは歴史のあるビルが軒を連ねる。ここに住処を持つことはアメリカ人たちの成功の証、名ピアニスト、ホロウィッツや映画監督、スピルバーグなどの高級マンションを垣間みながら自転車を走らせると、旧パンナム・ビルの大きな看板が見えてきた。僕はすでにニューヨークの中心部、グランド・セントラル駅の近くにいた。グランド・セントラル駅の近くまで来ると、車の流れも次第に良くなっていたが、道ばたに止まる黄色いスポーツカーが目についた。何故なら、その車の中から、派手な服装を着た金髪の白人女性が身を乗り出しているではないか。のろのろ走る車と大差ないスピードで自転車をこぎながら、その黄色いスポーツカーの横を通り過ぎた。「今の派手な女性はいったい誰なのだろうか?」と思いながら、もう一度後ろを振り返ってみると、道行く他の高級車たちに声をかけていた。彼女が高級娼婦であることに僕はすぐに気がついた。ニューヨークは金融の街、ユダヤ系出身の豪商たちがお金を牛耳る世界である。お金があれば何でも手に入るまさに資本主義の最たる街という一面をこの街は持つ。 腹ぺこの僕はポケットに入った数十ドルを握りしめ、安くておいしいものを食べられる場所を探すために自転車をこぎ続けた。グランド・セントラル駅を抜けると、右手にはエンパイア・ステートビルが見えてくる。エンパイア・ステートビルのふもとは韓国人街なので、焼き肉など東洋人の好きな食べ物にありつく事が出来る。前方を見ると彼方にワールド・トレードセンターが見える。焼き肉にも心が揺れたが、僕はそのままパーク・アベニューをまっしぐらに突っ走った。理由は簡単、このまま南下するとイースト・ビレッジと呼ばれるエスニック街にたどりつく。ニューヨークはエスニック文化のるつぼ、特にイースト・ビレッジはインド人、スラブ人、アラブ人など、あまり裕福でない人々の集落だ。僕はここに安くておいしい料理を食べられるポーランド料理店があるという話を同僚のポーランド系研究者から聞いていた。この店に着くと、カウンター席に座った。安っぽい作りだったが、店の中にはおいしそうなスープの臭いが漂い、僕のおなかが鳴った。お客さんはポーランド系の労働者たちだろうか?東洋人の僕が入ってきても見向きもしない。注文はソーセージと鶏ガラの効いた野菜スープにパン、これが定番料理らしい。量は労働者用Lサイズ、あっという間にお腹はパンパンになった。値段は3ドルちょっと、毎日通いたいくらいだった。 ジャズが似合う街 家路についても、独身の僕は特にこれといった用事がない。人間は食欲が満たされると余裕が出る。僕は自転車を今度はゆっくりこぎながら、何か面白い事がないか探す事にした。イースト・ビレッジの近くにはチャイナタウンやリトルイタリーもあるが、満腹の僕にこれらのグルメ・スポットに今は用がない。自転車を西に向かってこぎ出し、ソーホー、グリニッジ・ビレッジなど、ニューヨーク文化発祥の地に向かった。週末とあって、多くの人がこの近辺に繰り出していた。ここでたまたま足を踏み入れたのがジャズ・ライブハウス、ビレッジ・バンガードだった。この場所は今僕が音楽を聴いている六本木、スウィート・ベイジル139にそっくりだ。ニューヨークはジャズの街と言っても良い。黒人やヒスパニックなどの多様な民族が集まるこの土地では、どんな人の感性にでも訴えることの出来るジャズが好まれるのだろう。摩天楼が立ち並ぶ閑散とした通りで黒人が吹くサックスの音色は、ジャズを聴いた事が無かった僕の耳にも心地よく鳴り響いた。 そんなことを想いながら聴いていたジャズギターの演奏は、すでに終盤をむかえていた。彼は17歳で天才ギタリストと呼ばれていただけに、そのレベルは非常に高い。彼は35年以上もの間、ギターを弾き続けているまさにその道のプロと言える。楽器演奏などの技術を高いレベルに維持するには、毎日数時間のトレーニングが必要で、それを怠るとレベルはすぐに落ちてしまうらしい。外科医も同様で、毎日専門的な治療を継続的に行なっていると、良い結果を出し続けることができる。僕の場合、目の周りの治療は一日4件、月に100例近く継続的に行なっているが、そのことを知る友人の一人は「よくもそれだけ毎日同じ治療をして飽きないね?」と尋ねる。僕は「全く飽きないよ。何しろ、同じ治療をやり続けなければ技術が落ちてしまうので、飽きてしまうなどと言っている余裕がないから。」と答える。何しろ、患者さんたちにしてみると、その道のプロに治療してもらうことに越した事は無いのだから。