2022年9月20日
ある夜の出来事-4
蘇生
気管内挿管と心臓マッサージ、体内に輸液のための静脈確保等、蘇生のために最優先に行うべき処置を試みた。しばらく心臓マッサージをしていると心臓の動きが次第に回復し始めた。到着当時はほとんど触れなかった脈拍も、心臓の働きが回復するにつれ触れるようになり、血圧も次第に安定してきた。僕はこの時点で一命を取り留めることが出来ると確信した。
心肺機能の回復が見込まれると、溺水によって起こったさまざまな症状改善を図る必要があった。体温を測ると33℃と低体温状態に陥っていた。体を温める必要があったが、急激に体を温めると、細胞が破壊され体内電解質異常を引き起こし、再び心肺停止となりかねない。こういった場合、体を毛布でくるみ、次第に体温が上昇するように処置する必要があった。
肺のレントゲン写真を見ると、肺下部が真っ白になっていた。これは大量に海水を飲み込んだため、誤嚥性肺炎を起こしていることを意味する。海水は塩分を含んでいるため、浸透圧の影響で、水はけが悪く、真水を誤飲したときより、肺炎の状態がおもわしくない。肺炎が早期に回復するよう、静脈からステロイドと抗生物質を投与した。
蘇生処置が一段落した後、警察からこの事故の事情を聞いた。まだ真っ暗な午前4時半頃、港で魚釣りをしていた人が、人が海に飛び込むのを目撃したと言う。警察への通報から20分後、飛び込んだ人はレスキュー隊によって救出された。当時の気温0℃、水温は4℃と極寒の海に自殺目的で自ら身を投げたことが判明した。
不幸中の幸いは、海水温が4℃と低かったこと。通常の水温だと、入水してから3~4分以内に人は死に至るが、今回のように水温が低いと、人は海に飛び込んだ途端、低体温となり、体内酸素消費量が急激に減少するため、10分以上無呼吸状態でも生存している可能性が高くなる。
昔読んだ文献に、春先、薄氷の張った湖で遊んでいた子供が割れた氷から水中に落ち、40分後に湖底で発見されたが、水温が低かったために一命を取り留めたとの報告を読んだことがあった。今回のケースは約20分近くの無呼吸状態だが、この文献同様、低体温状態であったために、回復する可能性が考えられた。
患者さんは50代の女性だった。命は助かったとしても、一番懸念されたのは脳機能の回復だ。脳は大量の酸素を消費して活動するため、無酸素状態になると一番最初に損傷される。残念ながら、一度損傷された脳細胞は残念ながら再生されない。つまり、たとえ心肺機能を保たれても、無酸素による脳細胞の損傷が起こると脳死や植物状態となり、意識が戻らないかもしれなかった。
警察から事情を聞いていると、救急室の看護師さんが「先生、患者さんが痙攣し始めています。すぐに来てください。」と僕を呼んだ。人工呼吸器で酸素が体内に運ばれ、脳細胞まで行き渡ると、脳が過興奮し、痙攣が起きることがある。これは悪い兆候ではなく、むしろ回復へ良い兆候であった。僕は抗けいれん剤のバルビツールを投与し、沈静化をはかった。
だが、脳神経機能状態の指標となる瞳孔反射は完全に消失しており、この患者さんの意識がどこまで回復するのかは不明のままだった。人工呼吸器をつけたまま集中治療室に移動させた時点で蘇生処置は終了した。
時計を見ると午前8時を廻り、外はすでに明るくなっていた。病院職員たちの出勤が始まっていた。若い見習い看護師さんたちがにこにこしながら「おはようございます。」と僕に挨拶をする。僕は疲れ切っていたせいか、「ああ、おはよう。」とだけ言った後、1時間後の外来診察の前に、一眠りしようと足早に当直室へ戻った。