2022年9月20日
アンチエイジング診療の外‐28(愛犬の治療)
衝動的に手に入れたトイ・プードル 今回のアキレス腱断裂のように自分自身が患者になると、過去の病気や怪我にまつわる記憶が鮮明に蘇る。動物好きの僕はニューヨーク留学中に、ニューヨーク・タイムスの広告板に掲示されていたブリーダーの記事に目を留めた。その記事には“ロングアイランド、JFK空港近くで、元プードル・チャンピオン犬の子犬を飼ってみませんか?”との内容だった。その頃、日本から来たばかりで、若干ホームシック気味になっていた妻にとって、犬を飼うことは気分転換に良いかもしれないとも考えた。僕は妻に「この犬、良さそうだね。ちょっと見に行こうか。」と声をかけ、すぐに車に乗り込んでその犬を見に行くことにした。 JFK空港近くの中流階級の建て売り住宅の中にそのブリーダーの家はあった。住人は中年のポーランド系アメリカ人女性で、現在は離婚していて一人暮らしだという。彼女は趣味と実益を兼ねて、トイ・プードルの繁殖をしていた。僕は「どの犬を売りに出しているのですか?」と尋ねると、彼女は小屋の中に母親と一緒にいた出生3ヶ月の子犬を連れてきた。しっぽを振りながら僕の横にちょこんと座った瞬間に、僕はあまりの可愛らしさに一目惚れして、この犬を飼うことを即座に決めた。値段は$400、日本円にして5万円と格安だった。それはこの犬が品評会に出せるほど優れた犬ではなかったので、ブリーダーの女性は格安でこの犬の貰い手を探していた。しかし、この犬の可愛らしさは特別だったので、多少の欠陥があろうと僕はまったく気にしなかった。 それからというもの、どこに行くのでもこの犬を連れて行くことになり、ニューヨークでの生活に華が添えられたように感じた。マンハッタンのアッパー・イーストサイド3番通り、57丁目にはブルーミング・デールという上流階級御用達のデパートがある。ここは犬を散歩しながら買い物ができるデパートとして有名だが、僕はこの子犬を連れて買い物に出かけた。犬をこよなく愛するニューヨーカーから「Oh, adorable!」(なんて可愛いの!)という声がかかり、僕は自慢げにこの犬をみせて歩いたものだった。 ライム病 休みの日はロングアイランドの郊外にドライブに出かけ、野原でフリスビーを投げて、この犬を思いっきり走らせた。トイ・プードルは小さな犬だが、祖先は水鳥を捕まえる狩猟犬なため、運動が大好きだ。プードルの毛が縮れているのは水から上がってきた時にすぐに乾くためである。プードルは賢いことでも有名で、サーカスで芸をする犬の代表でもある。いつも元気なこの犬が、ある時まったく動かなくなってしまった。その一週間前に僕はこの犬の顔に一匹のダニがついていて、近くの動物病院でこのダニを取ってもらったばかりだった。いったいどうしたのだろう?まだ大学院生で臨床医としての経験のない僕は、この犬に何が起きたのかさっぱりわからなかった。ただ、ロングアイランドにゴルフに行くと、必ず大きな木に“ダニに注意!ライム病に感染します!”との警告がなされていたことを思い出した。ライム病は日本には存在しない病気であるが、アメリカ東海岸では深刻なダニを介する伝染病である。この病気の特徴は動物と人間の両方に感染し、発病すると発熱、間接痛、皮膚湿疹を引き起こす。原因はスピロヘータと呼ばれる、細菌とウイルスの中間的な感染物質で、梅毒と同様なタイプの微生物である。厄介なのは放っておくと病気はどんどん進行し、最終的に神経に感染して歩行障害、意識障害などを来たす。最悪の場合は死に至ることもあり得る。治療はスピロヘータに効くミノマイシンのような抗生物質を投与すれば良いので、早期発見が肝心である。 マンハッタンの動物病院 僕は直感的に「そうだ、あのときのダニが原因で、この犬はライム病に感染したのだ!」と気がついた。なぜなら、ライム病は発症までの潜伏期間が7~10日間なので、この犬の状態と一致する。僕はすぐにこの犬を近所にある動物総合病院に連れて行った。米国の動物に対する思い入れは相当で、ペットは自分の家族の一員という位置づけがされている。そのような背景のせいか、この動物病院には内科、外科はもちろんのこと、整形外科、産婦人科、眼科、など各科が揃っていて、人間の総合病院さながらの様相を呈していた。 僕の犬は白人の女性獣医の担当となった。僕は「先生、この犬は昨日あたりから調子が悪くなってあまり動きません。食欲もないし、歩いてもふらふらしているんです。先日ロングアイランドでダニにがついたから、もしかしたらライム病ではないでしょうか?」と単刀直入に尋ねてみた。担当医は僕に「犬を歩かせてみてください。」と言った。僕は「どうせ歩けるはずがないのに。」と内心思いながら立たせてみると、なんと僕の犬は元気に歩き出して、しっぽまで振っているではないか!僕は驚いて「どうして、さっきまでぐったりしてるのに突然歩きだすんだよ!」と犬に声をかけてみた。担当医は「ライム病ではなさそうですね。もしそうだとしたら、こんなに元気に歩けません。」僕は耳を疑った。多分、僕の犬は特殊な環境に連れてこられて興奮したのか、渾身の力を振り絞って元気な振りをしたのだろう。担当医は「多分、変な物を食べたか、高いところから落ちたか何か別の原因があるかもしれませんから、それらを先に調べましょう。」と言った。僕はそれでもこの犬がライム病に感染していると信じて疑わなかったが、とりあえず担当医の言うことを聞くことにした。僕の犬はレントゲン写真をとられたり、血液検査など、ありとあらゆる検査をされたが、何も原因らしいものは見当たらなかった。 検査から帰ってくる頃には僕の犬はぐったりとしていて、僕はまるで自分の娘が病に伏しているようなやりきれない気持ちに襲われ、目元が熱くなった。担当医は頭をかしげて「原因がはっきりしませんね。やはりあなたのおっしゃる通り、ライム病かもしれません。ではライム病に効く抗生物質を処方致しましょう。」と言った。僕は内心、「だったら、最初からいろいろな検査をせずに最初からそうしてくれば良かったのに。」と不満だった。なぜなら、これらの検査費用は5万円以上かかり、当時薄給で大学院生活を行っていた僕の生活費の半分近くに相当したからだ。しかし、この若い女性獣医さんも、今思うと病院での売り上げを考慮し、出来るだけコストパフォーマンスを上げるために、真っ先に検査をしたのだろう。家路についてこの犬にミノマイシンという抗生物質を飲ませたところ、数時間後からあっという間に元気が回復し始めた。数日後にはすっかり元通り元気になった。結局原因はライム病ということで、僕が直感的に下した診断が正しかった。 日本で暮らし始めた僕の犬 このような想い出とともに暮らしたニューヨークを、犬を飼ってから一年後に去り帰国の途についた。帰国すると犬の面倒を見るのは大変になった。留学していたころは自分の都合で時間を調整することが出来たが、日本に戻り、臨床医として勤務し始めるとそうは行かなかった。妻も働いていたので、僕は札幌の親元に犬を預けることが多くなった。元々自分で飼った犬だったので、親に仕事を理由に預けっぱなしにするのは無責任だと内心感じていた。だが、整形外科医の仕事は多忙で、犬の面倒を見ている暇はなかなかとれないのが現実問題だった。 日本に戻ってから間もなく、海辺近くの病院に整形外科研修医として勤務することになった。この数年間は自分の宿舎が病院の隣だったので、犬と一緒に生活することが可能となった。妻は札幌で仕事があったので、単身赴任での生活となったが、この犬はそもそも僕が飼うと決めた犬だったから一緒に連れてゆくことになった。昼休みと仕事が終わってからの散歩はそれなりに大変だったが、犬がいることで多忙な生活にも張りが保てた。研修医生活にも慣れてきた頃、海が大好きな僕は趣味で水上バイクを始めた。せっかく海の近くに住んでいるのだからこんな良いチャンスはないと思って、毎週末、時間のあるときには必ず海に出かけた。携帯電話は防水パックの中に入れて海の上でも持参する必要があった。ある時は海の上で、病院に骨折の急患が入ったとの連絡を受け、大至急病院に戻ることすらあった。 犬の骨折 そんな生活をしながら、ある風の強い日に犬を連れて水上バイクに出かけた。海に着くやいなや僕の犬は外に出たくてはしゃぎだした。僕は「わかった、わかった、今出してやるから車を止まるまでもう少し待ちなさい!」と犬に向かって言った。あまりにも騒ぐから僕は運転席に腰掛けたまま、犬が外に出られるようにと助手席のドアを押し開いた。その瞬間、僕の犬は車から飛び出そうとしたが、助手席のドアは強い海風に押し戻されて、犬の足がドアに挟まれてしまった。一瞬“キャイン”という大きな悲鳴を聞いた瞬間に、僕は「あー、ヤバい!」と動揺した。それからというもの彼女は微動だにせず、ただただ震え続けていた。全く歩こうともしないことから、もしかすると骨折している可能性があると思い、自分の病院に連れて行った。休日だったが、レントゲン技師に頼んで彼女の足のレントゲン写真を撮影すると、ものの見事に前足が折れていた。人間の場合だとこのような骨折は手術をして、鉄製ピンを埋め込んで支えを作ってあげなければ骨はくっつかない。僕はどうしたものかとため息をついたが、とりあえず近所の動物病院に連れて行った。 動物病院での獣医師はこのような骨折を治療した経験がないという。僕は獣医師に向かって「先生、これは人間の場合ですと、手術的をしなければ治りません。」と言うと、獣医師は「私はそのような治療経験がありませんし、骨折を治療する道具さえもここには用意されていません。」と答えた。僕は「それほど難しい手術ではありませんし、たいした道具も必要でありません。」と言うと、獣医師は「もし、よろしければ、先生自身が整形外科医ですから、執刀しますか?」と尋ねた。僕は「喜んで。」と自信ありげに答えた。この獣医師には手術のために必要な全身麻酔をお願いした。手術の道具は鉄製ピンとそれを骨に埋め込むために使う簡易ドリルを自分の病院から借りた。 自分の娘のように思えた犬にいざ手術をするとなると、メスを入れるのはさすがにためらった。しかし、やらなければ治らないので、一呼吸おいてからためらわずに彼女の前足に5cmほどの切開を加えた。人間と同様、赤い血が出てきたのを見た瞬間、僕は一気にいつも手術の時に感じる集中力が沸き起こった。その先は自分の愛犬にであることもすっかり忘れ、集中して手術手技を進めた。小さな骨片が彼女の足からこぼれ落ちてきた時はさすがに“はっと”したが、この程度の骨片は通常無視して良い。無事手術は終了し、ギプスを巻き終える頃、彼女は大きなあくびをして目を覚ました。犬のギプスは何故か赤い色をしているが、彼女の細い足先から付け根まで巻かれた姿は、足にバナナをつけたようで、妙に可愛らしかった。それから一ヶ月間のギプス固定を終えて、彼女は見事に回復し、普通通り元気に走り回れるようになった。 怪我が僕に教えてくれたこと 僕の犬はそれから数年後、彼女が7歳のときに突然発症した消化器の問題で他界してしまった。とてもショッキングな出来事だったが、この時僕はハワイへの旅行中で、どうすることもできなかった。それからさらに6年の歳月が立ち、今度は自分がアキレス腱を断裂してギプス固定される番となった。怪我と病気とは違う。病気は内面からの原因によるが、怪我は交通事故や転落のように外的要因、その多くは不注意から起こることが多い。僕自身、不注意によって多くの怪我に巻き込まれてきた。それのみならず、可愛い自分のペットまで大怪我に巻き込んでしまった。しかし、このような苦い経験を繰り返し続けるのは賢い人間のすることではない。僕はこれからの人生において僕自身やその周りの大切な人々を不注意によって、このような被害に巻き込まないよう肝に銘じようと思う。これまで、幸いなことに交通事故を起こしたことはなかったのがせめてもの救いだったと思う。交通事故を起こす前に車のハンドルを握らないことにしたのは、これらの苦い経験が僕に教えてくれた大切な答えだと感じている。